日豊本線・宮崎機関区「C6119号機」
停車中の写真が多いのには訳がある。多少長くなるが経緯を書き残しておきたい。
高校1年5月の週末。「機関車を見に行こう」と言うクラスメイトの誘いに乗った私は、彼のバイクに二人乗りして初めて冷水(ひやみず)という名の峠へ行った。
最大25‰の急勾配、筑豊本線の難所・冷水峠越えに挑むC55との出会いが、蒸気機関車に魅かれる始まりとなった。しばらくの間は、父から借りたカメラ(レンジファインダタイプ35mカメラ)を持って桂川、新飯塚、鳥栖機関区等々へ出かけた。
高校生の私にとって、往復のキップ代と僅かな小遣い、35mmモノクロフィルム数本というのが限界だった。なかなか上達しない私も次第に一眼レフカメラが欲しくなり、その年の夏休みのバイト(道路工事)で汗を流し、稼いだ金でMinolta SR-T101(標準レンズ55mm/F1.4付き)を買った。
初めて手に入れた一眼レフカメラが嬉しくて毎日、ピント合わせとシャッター押しを練習した記憶がある。ところが悲しいことに、迫る機関車を見るとピント合わせに慌ててしまい、前ピン後ピンを何度も繰り返していた。動体を捉えることの難しさに何度も悔しい思いをした。それ以来、走行列車撮影は苦手となり、駅構内や機関区で停車中の列車ばかりを撮るようになった。
当時の私にとって素早いピント合わせは高いハードルだったのだ。(当然、AF一眼レフカメラなど無い頃のこと。当時あればなぁなんて、悔やんでも致し方ないが)
という言い訳はこの辺で終わり、本題に戻りたい。
1972年の夏、修学旅行以外では初めて南九州へ撮影旅行に行った。23:59博多発の急行「かいもん」に車中泊、翌早朝6:12西鹿児島着。駅構内で撮影した後、日豊本線で宮崎へと移動した。途中下車をしながら駅周辺で撮影、夜も遅い時間に宮崎着。その日は駅前旅館に素泊まりしたが、お風呂に入浴したときの心地よさが今思い出される。慌ただしい強行軍の旅行であったが、今では懐かしく思い出される。
C6119は翌朝、宮崎駅及び宮崎機関区内で撮影したときの写真である。当機は「1971年10月に東北・青森機関区から宮崎機関区に6輛転属配置された内の1輛であるが、1974年の宮崎電化までに運用離脱となり、現在は鹿児島県霧島市国分・城山公園に静態保存されている」(Wiki)。
尚、以前にも当ブログに記載したがC61型蒸気機関車は「D51型の改造名義ではあるが、流用したのはボイラーと一部の部品のみ。走行部はC57形をベースに設計されているが車重は増加、C57の代替として製造された経緯から、同型式の入線線区に適応する水準に軸重を軽減するため、従輪を設計変更して2軸台車とした、2C2型の「ハドソン」と呼ばれる車軸配置となっている」(Wiki)
機関区事務所で構内立ち入りの許可を貰い、割と自由に撮影できた。地域によっても異なるだろうが当時の国鉄の粋な計らい、SLファンへの対応は、今では考えられないような配慮であったと思う。「自己責任」とは言え、隔世の感有りだ。
Minolta SR-T101+55mm/F1.4 Neopan SS、1972年夏・日豊本線宮崎機関区
« 夕張線・紅葉山駅「D514号機」 | トップページ | 筑豊本線・新飯塚駅「D6025号機」 »
「蒸気機関車」カテゴリの記事
- 夕張線・紅葉山駅を発車する「D51320号機」(2013.08.24)
- 岩見沢第一機関区「D5160」を撮る(2013.08.24)
- 日豊本線・宮崎機関区「C57117号機」(2013.08.15)
- 日豊本線・宮崎機関区「C57109号機」(2013.08.16)
- 追分機関区1975夏(扇形機関庫)(2013.08.17)
トラックバック
この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1448014/44973314
この記事へのトラックバック一覧です: 日豊本線・宮崎機関区「C6119号機」:
コメント